出来れば、代わってやりたい。なんて、レックスの立場とは遠く離れているので言えることだろうか。少女の仕事は、レックス達前衛の攻撃に隠れたあの家の主人の暗殺だ。彼に比べれば随分軽いもので、かつはるかに重大な任務。
少女は彼を一瞥してから、そうして目を伏せた。
侵入者を伝えるけたたましい警告音は、耳を劈くように鳴り続ける。
呼吸をする度に、過度の運動で胸に鋭い痛みが走る。
耳の中の空気が鳴っていた。呼吸と鼓動が、張り詰める空気を響かせる。
少女は使命感に後押しされて、追い立てられるように足を進める。
初めてここを訪れた者なら、今いる場所が一体どこなのか忘れてしまう程の広さ。少女は、自分の走っている場所を、良く知っているような気がした。
ここはハーネット家の屋敷だった。三階の、中庭沿いの廊下。
目が痛くなるほどの赤と金のまみれた廊下。高価そうな調度品が並べてあり、暗殺村にずっと住んでいる少女にはめまいがしそうなほど、美しい廊下。
少女は銃弾を込めながら、誰もいない無人の廊下をひたすらに駆け抜けていた。耳には自身の息遣いだけが聞こえてくるようで、それが彼女の不安を煽っていった。
息が弾み、心臓が悲鳴をあげる。肺が助けを求める。
――なぜ、誰もいない。
いくらなんでも、おかしいだろう。
少女は、ここまで走ってきて、まだ誰とも会っていない。
なんで? ……どうしよう。こわい。
少女はどうしようもない不安感に駆られ、後ろを振り返りながら頬に流れる冷や汗を感じていた。乱れた髪が頬に、額に張り付いていた。彼女の自慢の綺麗な黒髪が台無しだった。
早急に進める足が、知らず知らずの内に力を無くしてゆく。色々な不安が、少女の心を責めていた。止まって、誰がいるかを確認しろ、と。確認したら、この不安はきっと消える。ぎゅっと目を閉じると、少女は、妙に大きい扉の前で、ゆっくりと足を止めた。
少女の頭の中から、ここは目的地ではない。ここは当主の部屋ではない、と彼女に警告する。しかし、彼女はその警告が振り切れるほど、強大な焦燥感に駆られていた。
彼女は、ドアのノブにゆっくりと手をかける。
出来れば今から死ぬ人に近づきたくはなかったが、離れてもいけないような気持ちが彼女自身切実に迫ってきていた。
だから少しでもレックスの心を救いたくて、少女は無意識に口を開いていた。
「ハーネット家の主人はあたしが殺す。あなたが……」
あなたが死ぬ前に――。
少女はその言葉を口には出来なかった。言いかけて躊躇し、誤魔化すように咳払いした。彼女は少し思案した後、もう一度深く息を吸った。しかし、その言葉は彼によって阻まれる。
「一つだけ」
彼女が言葉を発する前に、この世の寂寥を全てこめたような、暗色の声が、少女の後ろから飛んできた。
「いいか、忘れるな。……暗殺村は、決して仲間を見捨てない」
はっとしてレックスを見上げると同時に、少女の黒髪がふわりと揺れる。
これまでずっと一緒だった、兄のような存在。いつも何も言わないけれど、少女のためには何でもしてくれて、本気で叱ってくれる存在。そして、あまり話さないけれど、少女のことを真剣に考えてくれる存在。気がつけば横にいる、空気のような存在。あたしは彼を、失ってしまう――。
もうこうして見上げることも出来ない。だから少女は、彼の姿をこの瞳に閉じ込めておこうと思った。
しかし、少女はふっと目を伏せた。
彼女は、彼の言葉が彼の立場から矛盾しすぎていて、それがただの現実逃避だとしか思えなかった。少女のその兄の最後の会話。彼女の心は、少し、でもあまり、動かなかった。
「やあ。だあれ、君」
ドアを開けると、薄い茶髪の男の子が軽く手を振ってきた。少女より一つくらい年上の、いや、それ以上に思わせる雰囲気の、だが優しい風貌の少年。
少女は思ってもみなかったこの屋敷で会う最初の人間に、数瞬あっけにとられた。その合間に入り込むように、けたたましく鳴り響く警報が静寂を汚している。
少年の柔和な笑みが、彼女をつつみこむように深まる。同時に、少女ははっとして銃を構えた。横目で出口の位置を瞬時に確認し、銃弾が飛んできた時に備え、とっさに隠れることが出来る場所を探す。そして、最後に少年へと視線を戻した。
少年の胸には、立派な純金の徽章をつけていた。少女はそれを視界におさめた瞬間、どきりとする。そして少女の開けたドアが妙に大きな扉だったという事実が眼前に迫ってきた。
「なるほど。あなた、ハーネット家の元当主の孫ね」
「……僕は、君が誰かと聞いているんだ」
少女は、目を眇めて一度少年をみやると、銃を下ろした。元当主の老人を殺すことが任務だが、彼を殺すことはない。ここに寄ったのはどうやら間違いだったようだった。今まで誰とも会っていないのは、きっとレックス達が頑張っていてくれているおかげだ。
「さあ、誰かしらね。でもひとつ言っておくわ。元当主の孫が他人に気安く話しかけないことね」
少女はもう一度少年を一瞥すると、くるりと身を翻した。身を翻したと同時に、少し頭がくらくらする。この絶え間なく鳴り響く警報のせいだろうか。少女は少し苛立って、強い調子でひとつ付け加えた。
「……それと、あなた。警報、鳴ってるけど」
振り返らずに言うと、ドアをゆっくりと押す。きぃ、という古びた音がこの家の伝統をにわかに伝えていた。「そう」という声が、しばらくして彼女の背中を追った。
少年は笑った。
本当におかしそうな、無邪気な笑いだった。
「――ばかだね。なんで時期当主が、警報鳴ってるのに逃げないのさ」
少女は反射的に横へ飛ぶ。
同時に、銃声。
背を向けていたこともあり、後ろからの銃弾は無常にも彼女の右のふくらはぎを貫通した。あまりの痛みに、少女は転がって右足を掴む。
風貌を思わせる上品な笑いではない、全てを呪う暗色の笑い声が部屋内に響く。
「本当におかしいねぇ、暗殺村の連中はさぁ」
「あ、あなたは……!」
声こそは掠れているが、少年を見る彼女の眼差しは鋭く光って少年を捕らえていた。銃口を彼女に向ける少年は、不敵に笑むと余裕を見せるかのように瞼を閉じる。
「たねあかし、しようか」
少年は胸につけている純金の徽章をむしるように取ると、赤い絨毯の上へ無造作に投げた。その様子を、隙を伺いながら少女。少年の笑みはさらに暗く深まる。
「まず僕は、時期当主じゃない。僕はフリーの暗殺者だ。君たちに仕事を奪われている内のひとりさ」
「フリーの……?」
「そう。だけど、今は僕のことなんかどうでもいいよ」
少女は、額に汗をにじませながら無理やり口端をつりあげた。
「……あら、それはどうして?」
不敵に笑んだが、彼はなんの感慨も抱かない透き通るような双眸で、機械的に彼女を見ただけだった。少女の問いには返事をせず、少年は口許に綺麗な弧を描かせ、そしてもう一度銃を構えた。
少女が反応するより速く彼の持つ銃が咆哮し、耳を劈くような音が警報と相まって部屋中に響く。
彼女が密かに拾おうとしていた銃が、部屋の片隅の方へ転がって、壁にぶつかってようやく止まった。少女は下唇を少し噛んで少年を睨む。
少年は、微笑を浮かべながら少女の心を呑むように青の瞳を細めた。
そして、幼い子に言い聞かせるように、ゆっくりと口を開く。
「――どうしてだって? だってね、このハーネット家の騒ぎは、全て君のためのものなんだから」
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