ススム | モクジ


 月は雲間から地上を覗いていた。ひっそりと地上を見渡しながら、都市や村を平等に照らす。確かに微弱な光だが、それは役割を果たしていた。見る者を惹きつける魔力を身に纏って、月は一日も休むことなく今日も身を潜めているのだった。
 少年は、立ち止まっていた。
 立ち止まって、見上げていた。普段は凝視することのない、不完全の円を。
 月を見ようなどと思ったのは、ほんの気まぐれだった。
 ただ、昼やりたいことを思いっきりし尽くしてしまった少年の、三秒ほどの暇つぶしにしかならない、遊びにもならない遊び。それが、まさかこんなに目が離せなくなるとは彼自身も想像しえないことだった。
 手を伸ばしても届かない、夜を彩る不思議な球。
 綺麗だ――。
 彼は自身にも聞こえない声で呟いていた。
 少年は、あまり感受性の強い方ではなかった。彼の家柄的に、物静かで落ち着き払った生活はどうしても出来なかったというのが、最大の理由だろう。
 日々の静寂の時間。その隙間を縫うように、トラブルが多い、いわば騒々しい生活が彼の心を満たし、その生活は彼を落ち着きのある人間へと育てた。そして、その生活は関心を示すということを覚えさせなかった。あまりに色々なことがありすぎて、少年はただ気を回すだけ無駄だということを覚えた。
 十七歳。
 若い。誰もが言う。
 しかし少年は何も答えずに目をすがめた。彼は関心を示さない。彼は既に年老いていた。既に疲れていた。
 その彼が、今この月に目を奪われている。
 不思議な縁だ、となぜか思った。
 風に撫でられて、色素の薄い茶髪が頬にかかってきたけれども、彼はかまうことなく月を眺めていた。この今の当惑を、どう表現すればいいのだろうか。
 月に目が奪われたが、少年は何も考えられなかった。ただ、綺麗だ、と思った。幾度となく使ってきたこの言葉が、今真実の色を伴って自分の心の中で反芻される。
 少年は感嘆の息を吐く。なるほど、やっと辿り着いた。この戸惑いの理由を。
――そっか。少し欠けた月、なんだなぁ。



「少し欠けた月ね」
 少女ははっきりとした口調で断定するように吐き捨てた。
「ああ。そうだな」
 少女の毒を吐くような発言を受け止めて、隣の青年は銃に弾丸をこめながら呻くように返事をした。「時間だ。今夜作戦決行か」
 少女はひとつ頷いて、短い黒髪を右手で触れる。白を基調とした、閑散とした部屋内に銃を弄る音だけが鼓膜を叩く。月から目を外すと、窓に映る自分の顔にはたと出会った。口端をきゅっと引き結んで、眉を潜めている少女の姿。あたしは緊張しているんだな、と他人行儀な考えを頭の中をよぎった。
 これから、戦いが始まる。それも、味方勢よりはるかに強大な勢力、“富豪”との。
 しかし、無論こちらとしても負け戦をするつもりはない。こちらにも、作戦があった。しかし、その作戦に今少女は複雑な思いを抱いている。それは非常に複雑で、言い表しようのない鈍い痛みを伴った思いだった。
 少女は隣の銃弾を入れている金髪の青年をちらりと盗みみて、遠慮がちに口を開き、
「レックス……あの、やっぱり今……つらい?」
 ずっと気になっていたことをとりあえず疑問にしてみたが、次の瞬間、その言葉の無神経さに気づき、さっと血の気が引く。
 神経質に銃をいじっていた青年の手が、止まった。同時に、部屋を満たしていた硬質な音も止む。
「ああ。そうだな」
 先ほどと同じ言葉だが、少女はその低い声に身を引いた。
 当たり前だわ……。少女は自分の無神経な発言に悔いる。
 彼は、これから死にに行くのだ。なのに、つらいなど生易しい同情の言葉をかけるべきではないのに。ばかだ。少女は自分の愚かさに歯噛みした。
 レックスは銃弾を込め終わると、また銃弾を一つ一つ丁寧に出していく。先ほどから、そんなことばかり繰りかえしていた。これでもう何度目なのだろう。
 ここが暗殺村じゃなかったら、彼は死なずに済むのだろうか――。
 一瞬、この村の人間が考えるべきではないことが脳をよぎった。ここは暗殺を生業としている有名な村だ。村自体が暗殺業を営み、成功率がどの暗殺家業を営んでいるところよりも高い。しかし、完全に独立をしていて誰も接触できない村としても有名だ。
 しかし、その村に接触をしてきた身の程知らずの輩がいた。
 彼女は悔しさでいっぱいだった。少女は拳をぎゅっと握り、目を固く閉じる。
「ねえレックス。ハーネット家が暗殺村を配下になんかしようとしなかったら……あなたは明日もここにいるの?」
 あの、身の程知らず――ハーネット家の当主が!
 少女はむせかえるような怒りを胸に秘め、淡々とした口調でぽつりぽつりと言葉を紡いだ。
 ハーネット家は常人が考えきれないほどの大きな富豪だ。その大きな富豪の老人当主が、暗殺村を家の配下にしようと交渉してきた。しかし少女は思う。あれは交渉などではない。恐喝なのだろう。
 そしてそれを聞いた同日、作戦を聞くことになる。同じ家に住むレックスは、少女に必要最低限のことを呟くように話した後、それきりあまり彼女と顔を合わせず作戦決行までの日を過ごした。
 気まずいことこの上なかったが、隣の家の女の子に事情を聞くと眉を顰めて、大体このようなことを言った。
 自分たちより大きな戦力に対抗するには、“作戦”が必要だ。言い換えれば、“犠牲”が必要なのだという。そしてさらに言えば一番死ぬ確率が高いところ――前線に立つ者が必要なのだ。
 そう、村長はレックスに前衛で戦えと言ったらしいのだ。他にも前衛で戦うものもいるが、彼はその最前で戦うことになる。村長の抜擢だ。
 しかしながら、レックスは別段戦闘術に優れているとでも、村長に信頼されているわけでもない。
 これが、どういう意味を持っているかということは、今年十六歳になった彼女にもわかった。
 要するに、村長は彼に死ねというのだ。レックスは村の犠牲に選ばれた内の一人なのだ。
 死の宣告を受けた彼は、その一人の背に何を背負っているのだろう――。
 あたしは、彼に何もしてあげられない。少女は低く呻いた。自身の心の中に転がっている事実を、ただ一心に受け止めるしかなかった。
 血は繋がっていないが、今まで一緒に暮らしてきた彼。今まで兄弟として過ごしてきた四年間。
 短いようで、とても長かった。
 彼は、あと数時間後に、死ぬ。



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