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モドル | モクジ


「……旅人さん。旅人さん」
 彼女のうたうような柔らかい声が、室内に響く。その声音は、柔らかい。しかしどこか硬質な色を帯びていて、妙な焦りが滲んでいるのが分かる。
 呼ばれている。
 彼女が青年を覚醒させようとしているのが分かったが、彼は重い瞼を閉じたまま、沈黙をやぶろうとはしなかった。まだ深く優しい海の底で、じっと沈んでいたかった。太陽に反射して煌く波の光を、眺めていたかった。
「フィルさん!」
 フィルは、ふいに強烈に深いまどろみから引っ張り出す力強いものを感じた。
 それが何か分からないうちに、周囲に泳いでいた色とりどりの魚が、消えてゆく。先ほどまで揺らめいていた波の光が、消えてゆく。深淵を歌う暗い海の底が、消えて行く。彼が思い描いた“自分の殻”が、音をたてて崩れていく。
「……ここは」
 視界に広がる月明かりに照らされた数々の光物が、鈍い輝きを放っていた。この独特なデザインを施してある家。彼には見覚えがある。ここは。
「フィルさん……。良かったぁ……」
 彼が目を覚ますと同時に、身体に軽い衝撃を感じた。気が付けば彼女の細い腕が彼に回されている。彼女の体温が、彼にじわりと滲んだ。どこか懐かしい感触だと、ふと思った。
「アキ、さん?」
「フィルさん。私、もう目を覚まさないかと……!」
「いや、た、ただ寝ただけ……」
 言い終わらないうちに、二本の腕の力が強くなったことを感じた。戸惑う彼の耳に、ぎしりとスプリングの軋む音が飛び込んでくる。思考がゆっくりと彼の脳内を歩き回り、やっと彼女の温もりと優しさをだんだん処理し始めた。
 彼女の頭を見下ろしながら、彼は苦笑いを浮かべた。
 ――ラル。
 あの困ったような笑みが一瞬浮かんだが、フィルはそれを全て押し殺して、ただ彼女だけを見据えた。彼女はその言葉の先に、何を見ているのだろうか。いや、その問いさえ野暮だというものなのかもしれない。答えは、既に彼女の両方の腕にもう見えている。
「ねぇ、フィルさん。ずっとここにいていいの。あなたのお家だと思っていいのよ。もう歩かなくていいの」
 暗い路地の向こうで、決意と剣を手に引っ掛ける悲しみの旅人。社会の黒を象徴する孤独の旅人。“ひとり歩き”。
 彼の長い旅路。ここにたどり着くまで、何を失っただろう。いや、何がまだ自分に残っているのだろうか。
 まだ、残っているものはなんだろう。
「…………アキさん」
 表情筋が本人の意思に反して、勝手に動く。元に戻そうとしても、もう力が入らないことは分かっていた。それが泣きそうな表情を形作り、彼はもう表情さえが崩れ始めたことを悟った。
 ――なあラル。やっぱり人って、存在を定義してもらわなきゃ、生きていけないんだよな。
 彼の困ったような笑顔の中には、確かな笑顔が隠れていた。
 一日たった二言。たった三秒しか顔をあわせなかった二人の少年。
 しかしそれだけで、既に二人は最高の親友だったのだ。
 ――ごめん。いつもお前の所に遊びに行ってた俺が、お前の存在を繋ぎとめてたんだよな。
 泣きじゃくる彼女を困ったように見下ろしながら、気が付けば困ったような笑みを浮かべている自分がどうしようもなくおかしい。一筋の涙が頬を流れ、頼りなく彼女の髪の上に落ちる。
 彼の困ったような笑みの意味を幼い少年が知るまで、七年の歳月がかかった。
 長かった。長すぎたんだ。
 一日に一回見るこの笑顔には、自分の親友への愛が溢れていたんだ。




 フィルは、泣き疲れて寝てしまったアキを、ゆっくりとベッドに横たえる。
 まだ癒え切っていない傷を守るように、柔らかいベッドから起き上がる一つの黒いシルエット。どこかぎこちないその動きは、非の打ち所がないほど十全に仕事をやり遂げた“乙女”を何度も気遣っていた。
 壁に立掛けてある剣を迷いなくとると、黒のシルエットはもう一度彼女を振り返り、しかしそれだけで、もう振返りはしなかった。
 静かに扉を開いた彼は、もう一度暗闇へと足を踏み入れ、旅路を辿って行く。




 寝ながら涙をこらえるって、なんて難しいんだろう。
 彼女は柔らかいベッドに身を預けながら、もう一度だけ涙を堪えようと、強く瞼を閉じる。
 彼は、どこへ行くのだろう。
 出口の無い迷宮を死に物狂いに駆け抜け、一体どんな終焉に辿り着こうというのだろう。
 光物の多い部屋の中に、月の光が反射する。どこか頼りないこの光に、彼女は祈りをのせた。
 彼の旅路と、この月に照らされた不安定な世界と、彼の未来と……。
 ……そんなに頼みすぎたら、叶うものも叶わないかな。
 しかしながらひょっとすると答えは、最初から目の先に既に見えていたのかも知れなかった。祈りほど、他力本願で勝手なものはないのだ。自分の願いは、自分のためだけに存在していて、それは願うだけで応えてはくれない。
最初から分かりきっていることに気づくのに、少しだけ時間がかかった。





 孤独の旅路。暗い路地を踏みしめて歩くその先に見えるもの。
 人一倍生きることに必死だった、孤独の旅人。しかし、彼はまた人一倍生きることに戸惑っていた、悲しい旅人だったのだろう。
 彼は色が違う双眸から決意の光を湛えて、静かに闇夜を歩いていた。
 彼の供は月明かり。
 この旅路は、父や母、途切れた一族と彼の親友へと繋がるものだという光を胸にひっかけて、彼は片手に剣をひっかけて歩を進める。
 ……少し疲れたら、またあそこに戻ってもいいかもな。
 くだらないことを考えて、青年は側面の壁に全体重を預けてゆく。細い路地を曲がった先に見えるのは、無数の星。先ほど自分がいた、綺麗な“乙女”の街。
 視界を覆う地上の星は、さながら小さな宇宙だった。





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