MazE
ラル=ド=クランディス。
世界最高の犯罪者の名前にして、世界最大の異端の存在であり、異種族の長の息子にして、フィル=リ=レアリードの最高の親友。
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「フィル、ごめんな。また今度……」
これが、ラルの口癖だった。
フィルがラルを遊びに誘ったとき、ラルは困ったような笑みを浮かべながら、いつも言う。
ラルは、“賢者”という異名を持つ異種族の長、アルドの一人息子だった。だから異種族の中で群を抜く知識が必要で、毎日家に閉じ込められなければならないのだった。
元長が“賢者”と呼ばれるには相応の理由があった。世界をまわった確かな経験と、溢れるまでの知識。元長は、長に必要とされるその二つの要素を持っていた。その子であるラルが、どんな生活を強いられていたのかは、子どもでも想像は容易だ。
ラルは、戦っていた。
自分の自由を奪う父親と。目の前の理解不能な言葉の羅列と。一族の期待と。自分と。毎日飽きもせず家にくる、自分の親友と。
戦いに、彼は勝ったのだろうか。
問われると、フィルはきっと大きく振りかぶってこう答えるだろう。「いや、全部に負けた」、と。
周りに存在する全てに押しつぶされて、身近にいた父親にさえも抑圧されて、彼はまた困ったような笑みを浮かべる。彼の足元には、一族へのただ一つの愛だけが落ちていた。一族を愛し、しかしそれ以外は何も愛さなかった――愛せなかった。
全ての視線が耐えがたかった。気がついたら、彼は自分から家で勉強するようになった。
……気づく、べきだった。ここで。
フィルはここまできていつもため息をつく。全ての怠惰と寂寥を込めた息をついて、しかし吐き出したその感情がまた浮かび上がってきて、結局彼はどこからも抜け出せない。
ラルは自分の世界に生き、毎日夜に目を閉じ、楽しい夢を見ながら、深く暗い殻に閉じこもった。
事が起こる一週間前。
フィルはいつしか、ラルの家の扉を叩かなくなった。
――起きろ。
目を覚ました先にあったのは、隣の家のおじさんの見下ろす怜悧な視線だった。寝ぼけた頭を叩かれ、腕を掴まれて広場に引っ張られた。
広場で待っていたのは、闇夜に光る大人たちの厳しい多くの瞳だった。
――答えろ。ラルとお前は仲がいいだろう。あいつは昨日なにか言っていたか。
一人が怒号を発した。びくりと身を震わせ、早口でまくし立てた。
なにも。フィルは戸惑っていた。それに仲なんて良くありません。ラルは付き合いが悪いから、最近は遊んでいません。どうかしたんですか。
ラルが何か悪いことをしたんだ、とフィルは瞬間的に感じた。少年は目上の人の表情の変化に敏感で、怒るときの表情の変化を、長年生きた元長などよりずっとよく知っている。
ラルとの関係を絶つことで、これからくる叱責の太い声から逃れようとした。どんな小さなことからも逃げ出す少年は、悲しいほどに歳相応だった。
――あいつが、王を、殺そうとしたんだ。
死刑囚の同胞を勝手に連れ出して。
おじさんの一句一句を吐き出すようにして発した口調の中には、沈んだ暗い色が見えた。この深く深くに沈んでいったこの色こそを、絶望というのだろうか。
世界に、宣戦布告した……。
あの困ったような笑い方が、フィルの脳裏で最初に浮かんできた。あいつが、と掠れた声で誰にともいわず問うた。その呟きは既に太陽が沈んだ暗い月明かりの中、静かに空気へ溶けていく。
うそでしょう。そう口に出してみた。しかし、誰もフィルの言葉には反応せず、大人たちは難しい言葉で議論を繰り返すだけだった。
――迫害だ。
また、難しい言葉が一人の口から発せられた。フィルは顔を上げた。
――逃げられない。これから社会規模で始まる。そして、もう決して終わらない。
フィルの不純物の無い瞳の奥に、気がふれたような父の表情がいやに鼓膜に焼きついた。
何年も経った今も、消えてくれない父の姿。フィルの見た父の最後の姿は、誰に向けて言っているかも分からないような呪いの姿だった。
あれから、父はどこにいってしまったのだろうか。
しばらくして分かったのは、一族が全員散らばってしまったことだった。
気が付けば周囲にはいつも人がいない。かくれんぼだよ、と母は言った。まだ幼いフィルの手を引きながら、涙を流しながら笑っていた。ずっとかくれんぼをするんだよ、これから。
――見つかっちゃったら死んじゃうよ。
それからもうしばらくして、少年は全てを知った。
ラルが引き起こしたこの事件によって、全ての均衡が崩れたことを。今までも少しずつ異端扱いを受けていたこの状況を、雰囲気的にとでもいえばいいのだろうか。それがきっかけを得て、具体化した。それだけのことなのだ。そして具体化させた原因となったのは、ラルではなく、一族自身だと。たった、それだけのこと。
『あいつが世界に宣戦布告などしなければ、俺たちは迫害されやしなかった』
おそらくそれはほとんど正解で、少しだけ違う。
訂正を加えると、ラルが世界に宣戦布告する少し前からも、迫害を受けていたのだ。その事実から目隠しをして自分達の殻に閉じこもったまま生活を共にする異種族は、確かな異端の存在として社会に確立されている。そして自分の殻の外の少年一人に憎悪をぶつけ、彼らは今までとなんら変わっていない。
少年を殻の外に押し出したのは誰なのだろうか。
『殺せ。異種族を世界のどん底へ突き落としたあいつを、どこまでも探し出し、殺せ!』
もうやめよう。
たぶん、ラルももう死んでるんだ。
彼を救ってやらなかった異種族。
彼を救ってやれなかった幼い自分。
何を自分が考えようと、二つの間にあるのはたったそれだけの差なのだろう。どうしようもない。
全ての事実に目を閉じて、ただ明日のことだけを考えて、今日はもう寝よう。
あした。
明日、考えよう。
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