MazE

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 手を伸ばしたら自分はきっとその人を斬ってしまう。
 手を伸ばしたら自分はきっとその人にしがみついてしまう。
 そんな自分はきっと、どこまでも“ひとり歩き”のままでどこまでも醜い死人のままなのだろう。
 ――そのことを分かっていて、青年は彼女の柔らかな手をとってしまった。


MazE3


 視線が交錯したたった数瞬に、さまざまな思いが脳内を駆け巡った。
 しまった。瞳の色を知られてしまった。弾かれたように最初に声をあげたのは、この考えだった。もう何もかも終わりだ。次に浮かんだのはそんな下降思考。迷惑をかけてしまう。深い罪悪感がそんな下降思考へ交差した。そして、逃げろ、と切実に神経に迫る考えが上から叫ぶ。
 様々な思いが駆け巡り、全ての考えが個々の主張をし、全て相殺される。
 青年は、視線を外せなかった。栗色の双眸に吸い込まれるように、彼女の瞳から目を離せなかった。
 この手を、離したくない。新たな考えが青年の心へと囁く。
 いやだ。純粋な拒否を示す悲しみの感情を、振り切るようにした唇を噛んだ。
 青年は思った。旅人を癒す“乙女”は、双眸さえも澄み切っていて綺麗なのか。そんな場違いなことを考えた青年の心は、既に正常なものではなかったのかもしれない。
「……た、旅人さん?」
 震えた声で、アキは自らの顔を覆った。フィルは俯いて、自分の手のひらを見下ろした。彼の手のひらは、彼女のそれとは違って傷だらけだった。
「その、目……どうかしたの?」
 彼女の指の隙間からみえる栗色の瞳は、明らかに震えていた。
 それを見た瞬間、ざわっと風が吹いたように、心が揺れた。
 見るな。そんな目で俺を見るな。また、心の奥の自分が叫んだ。耳を強く塞いで、目を閉じて、弱々しくその場にうずくまって震えているもう一人の自分が。
 そうやって一人で震える彼は、いつも絶対的な社会の序列のどん底にいた。
 ……なるほど、正常な反応だ。
 フィルは、自嘲的な薄い笑みを浮かべた。一拍おいて、力いっぱいに奥歯を噛み締める。同時に、傷ついていない左腕でベッドを突き飛ばし、左足で床を蹴った。
 アキははっとしたが、青年はそれ以上に速い。負傷しているとはいえ、重量のある防具がない。身軽になった彼にとって、テーブルの上にある剣を取ることは容易なことだった。
「動くな」
 剣先を、短い言葉とともに突きつける。
 アキの白い首筋に、一筋の赤い血が妙に鮮明に映る。鮮やかな赤を視界に入れると、心臓が、どくんと跳ねた。七年前の感覚が戻ったような錯覚を、起こす。
 一瞬の間に後ろへ回った青年の技能は、誰がどう見ても手慣れたものだった。正体を知られた者を消す為の、鋭い剣先。彼は、何度もこうやって来たのだろう。彼の動作は、それを感じさせるのに十分なほど、達者だった。
「……あ、あなた、“ひとり歩き”なの?」
「うるさい」
 フィルは自分でも驚くほど冷たい声で、そう吐き捨てていた。
 彷徨い放浪する孤独の旅人。そんな異種族の末路をあざ笑う名前で、彼女は自分を呼ぶ。彼女はもう自分の名前を忘れてしまったのか。そんなに自分の名前は価値の無いものなのか。
「俺は異種族でも“ひとり歩き”でもない。……俺は、俺だ」
 一つ一つを、はっきりとした言葉で綴った。碧と青の双眸が、鋭い輝きを放つ。
 多人数が常識であり、少人数は何の力も持てない。これが、社会を決める全てであり、それだけ。
 そんな社会など、認めない。
 社会の中にいない人間でも、存在する意味はある。生きる世界がなくとも、傷を負おうとも、歩けなくなろうとも、生きる意志があれば、人はまだ生きていられる。この世界に存在している。社会から弾かれても、嫌われようともだ。生きようと思えば、地に足をつけて立っていける。――まだ、歩ける。
 ……それだけで、もう俺はこの世界に存在している。俺は、この世界に存在できる。
 首筋の切っ先に、さらに力が込められる。全ては、彼女に向けられた言葉ではなかった。自分自身の傷ついた心を包む、ひとつの小さな希望だった。
「……ううん。でもあなたは、やっぱり“ひとり歩き”だわ」
 青年は、その瞬間切っ先に力を入れた。彼女の白い首筋に血の筋が伝い、彼女は小さく呻く。殺してもいい、と心が叫んだ。存在意義を否定するこの女を、殺さなければならない、と。
 しかし、心の奥でそれを諌めるものが、強く耳を塞ぎながら本能を優しく抱く。少し、強張った筋肉が限界で止まる。
「……違う」
「ううん。きっと、違わないよ。あなたは“ひとり歩き”で、孤独の旅人なんでしょう?」
 青年は沈黙した。沈黙の間に、複雑な思いが絡み合った。腕がひとりでに動き出しそうで、強烈な自制心がそれを制する。いや、それが自制心なのかも分からなかった。なにが彼の殺戮の意思を止めているのか、彼自身にも分からなかった。
 その思いが何を感じているのかが定かにならないまま、彼女はそれを消すように言葉を繋ぐ。
「陽気な旅人でも、きまぐれな旅人でも、流浪の旅人でも、それはやっぱり旅人だと思うの」
 アキは、言いながら優しく剣先を手のひらで包み込んだ。
 とても自然で緩やかな動作だった。剣先を掴まれたにもかかわらず、彼は動けなかった。今まで考えていたことが、次々とぶつかりあって、頭の中に渦巻いた。
 そこからすっと入ってくる彼女の言葉の一つ一つが、妙に脳内にがんがんと響く。腕の力が、弱まっていく。薄い口紅をひいた彼女の唇から紡がれる次の言葉を、青年は切望していた。
「旅人なら、“乙女”は誰でも受け入れます。……ねえ、孤独の旅人さん」
 剣の鋭い切っ先を手のひらで包んで、アキは彼に笑いかけた。
 フィルは、栗色の目を見つめながら、不思議と現実感を感じていた。本当は、こういう言葉を求めていたのかもしれない。後ろから追い詰める何かに追い立てられるように、命の恩人に剣を向ける青年。迫る暗闇から逃れるべく、叫びながら剣を振るう青年。気づけば、“乙女”に向けられた切っ先はとても不恰好で、不釣合いだった。




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