MazE

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 “乙女”の名を、アキといった。
 傷つき疲れた“ひとり歩き”は、彼女の部屋のベッドで、やけに多い光り物がある天井を見ながら、目を閉じた。暗い視界の中に、天井の明かりが瞼越しに小さく映る。青年は、ようやく自分の見た小さな宇宙が、旅人の休息地、“乙女の町”であったことを知った。


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 アキには、独特のセンスがあった。
 光を反射するものが好きなようで、部屋内はガラス細工の置物がたくさんあった。それが天井の明かりを反射していて、しかし嫌味な感じは不思議と感じられない。彼女の部屋は、光に満ちていた。
 青年はうっすらと目覚めたとき、少し目を眇めた。暗い風景に慣れきった眼には、この部屋は明るすぎた。
「あら、起きたかしら」
 フリルのついたワンピースの上に、上着を着ていた彼女は、小奇麗な格好をしていた。よくみると、薄化粧をしている。青年は胡乱げに目を細めると、彼女の問いに頷いておいた。
 彼女は、そんな彼を振り向きもせず、台所へ向かって「待って、もうすぐ出来るから」としきりに何かをしている。青年には、その声が少し上擦って聞こえた。
 戸惑ったように、二人とも何も喋らなかった。
 それから、しばらく何かをたたく音と水の音だけが、光で溢れる部屋内を静かに漂った。
「……私ね、アキっていうの」
 しばらくすると、彼女は口を開いた。青年は、ふと顔を彼女に向ける。
「ひどいケガだったね。でも手当ては得意なの。だからもう大丈夫だよ」
「……そ、う」
 青年はぎこちなく頷いて、また天井へと視線を戻した。
 “乙女の町”。旅人の休息地。乙女は旅に疲れた旅人を無償の愛で癒し、夢を与え、彼らの旅路を見送る。旅人の憩いの場で、欠かせないのが“乙女”だった。
 青年は、複雑な思考を持て余しながら時折アキの後姿を一瞥する。
 だが、青年は旅人ではないのだ。異種族で世界から嫌われる、“ひとり歩き”。
 追われている身であり、決して他人と何かしらの関係を持ってはならない。関係を持てば、居場所を特定され、その人にも迷惑をかける。異種族は、碧と青の瞳をしていることで既に有名なのだ。
 青年は下唇を噛み締めて、視線を落とす。なんとか異種族だとばれる前に、ここから逃げないと。彼の考えは、そのことでいっぱいだった。
 ふと、布団を握りしめて、ため息をついた。
 ……人と話すのは、久しぶりだ。
 久しぶりに触れた柔らかい布団の生地を眺めながら、青年は苦笑いを浮かべた。
「ねえ旅人さん。お名前はなぁに?」
 たおやかな振る舞いで、青年の隣に正座で座ったアキの手には、スープがあった。青年の顔を覗き込んできた彼女に、彼はぎょっとして顔ごと視線をそらす。
 絶望的な状況に、青年は徐々に心臓が速くなるのを感じた。目を見られれば終わりなのだ。異種族か否かなど、すぐに分かる。目を見られる前に、ここから脱出できるかどうか。
 ――できるはずがない。
 不思議そうに顔を傾ぐアキを後方で感じながら、青年は自分の声が落ち着いた声であることを祈って口を開いた。
「……フィル」
「フィルさん? いいお名前ね。ねえ、何かしたいことでもある? 自分のお家だと思ってもらってかまわないのよ。スープ作ったんだけど、飲むかな」
 気遣うような声色で、アキは言った。決して強制しない口調だった。
 慣れているのだろう。フィルは目を眇めた。どうやらアキは、青年を訳有りで話しベタなタイプと判断したようだった。半分正解で半分不正解なのだが、フィルは今そんなことを考えている暇はなかった。
 見たところ、入り口は三つ。
 一つは無理だ。彼が届かない程の高い場所にある。二つ目、正面口。ここからとても遠く、さらに鍵がかかっている。一番希望的観測ができるのは、最後の勝手口だった。……台所の隣になければ。
「スープ、飲みたくない?」
「い、いやっ。別に……。飲みたくないわけでは……」
「ならどうぞ。体が温まるよ」
 スープを差し出すアキの手は、驚くほど綺麗な手だった。手入れが施された、優しい手のひら。端正な顔こそ持っていないが、その代わりに柔らかい表情を持っている女性だった。
 だめだ。受け取れない。
 青年は反射的にそう思った。なぜだろう。完璧なものを見ると、無性に腹立たしくなってくる。彼女は自分にないものを持っている。彼が死んでもなお、持てないであろう物を持っている。
 傷ついた心を抱擁する柔らかい両手を持っていて、存在意義をもっていて、他人を救える言葉を持っていて、そんな彼女に、きっと他人は大きな価値を定義するのだろう。
 憎い。
 未来を持つこの女が憎い。他人のために生きることができるこの女が憎い。癒しの両手を持つこの女が、羨ましい。
 他人を下落されることしか知らない自分の両手が、たまらなく憎いのだ。
 青年は下唇をかみしめる。かみしめた下唇からは、軽く血が滲んだ。鉄の味がじわりと口内を蝕む。
 剣をひっかけ、右肩と右足から血を流し、それでしか自分の歩いた道を残すことができない。異種族。世界から毟り取られた民。孤独の旅人。――“ひとり歩き”!
「……フィルさん?」
 不安げに揺れる声に、青年ははっとした。ふと、自分の瞳孔が開いていたことに気づく。我にかえると、冷たく悲しい気持ちが波のように押し寄せてきた。
 決して幸せになれない。自分の将来を憎み、人の将来を妬み、隣人の将来を奪う。社会から否定されたものは、この世にあってはならない。
 世界を定義するものは、常識と一つの社会を作っている人間だ。
「……ご、ごめんなさい。スープはお下げします」
 申し訳なさそうな顔のまま、アキは立ち上がった。その言葉は、フィルの心を少し揺るがした。彼は顔を顰めて、アキの背中を一瞥した。少し寂しそうな、小さな背中。
 罪悪感に駆られて、口を開きかけた。だが、半ばまで開いたところで、それは閉じられる。
「……ねえあなた、辛いんでしょう?」
 ふいに、アキは呟いた。フィルははっとして、アキへと視線を上げる。
「本当は、苦しいんでしょう?」
 アキは振り向いた。青年の意識に語りかけるように、彼女は必死に本質へと同調しようと訴えた。
 青年は、初めてアキの双眸を見た。栗色の瞳は、切なげに細められている。
 初めて、“ひとり歩き”と“乙女”の視線が交差した。


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