MazE

ススム | モクジ


 月夜が照らす細い路地を、息を殺して、ひとり歩く。
 隠れながら、怯えながら歩くことを、いつしか世界は“ひとり歩き”と呼ぶようになった。



MazE



 一年前、世界の表情は、一変した。
 異民族の中の一人の野心家が、同胞を引き連れて世界に宣戦布告をしてから、この世界は変わってしまった。この穏やかな聖女のベールを剥ぎとった中から現れたのは、疲れ果てた、か細い手で杖を持った皺だらけの老女であった。
 三本の足で立っている世界は、一人の異民族によって大きくバランスを崩す。
 そして、それは始まった。


 からからから……。
 金属と石が擦れあう音が、夜の静寂に溶け込み、消える。
 独りで片足をひきずりながらゆっくりと歩を進める青年は、二十歳前後に見えた。細い路地の壁に身を預けながら、俯いている。彼の前髪の隙間から時折見える彼の碧の瞳は目の前の闇のみ映し、ガラスのように鈍く光っていた。
 決して速くはない速度だった。しかし、それが危険な歩調であることは、見れば一目瞭然だった。石畳をすりながら進む彼の右足の後を、点々と赤い血が追っている。重傷だった。 青年は知っている。歩くのも、もう限界であろうということすらも。
 もう筋肉すらもあまり動かないのだ。力の入らない手で、ただ剣の柄は離さないように、彼はこの石畳に赤い染みを作りながら、歩く。……歩いた先が、何になるかは分からずに。
 剥き出しの剣先が、石畳とこすれあって、からからと寂れた音を生み、流れて消える。
 風の冷たさが心を包んで、無防備な体を掠めとる。温かいのは、右足と右肩から流れる赤いもの。
 ――ここは、どこだろう。
 青年の方向感覚を狂わしたのは、痛みのせいだけではなかった。彷徨い歩いた時間もそうであるし、変化のないこともそうであった。彼の記憶は、一年ほど前から変わってはいない。
 ――痛い。苦しい。
 無表情の下で、もう一人の自分が叫んでいる気がした。これも一年前から、変わっていない。声が枯れんばかりに、頬を絶え間なく流れる涙を隠そうともせず、暗闇に向かって叫び続けている。泣き叫んでいる。
 そんなに叫んでも、誰も聞いてくれやないのに。
 ――くるしい。
 独りで歩く、暗い路地。閑散としていて、闇が息を潜めて棲んでいる。住むべき光の世界から追い出された、異民族達の墓場。
 ――くるしい。
 心を切り裂いて駆け抜ける風。決壊した場所からあふれ出す思いと想い。目くるめく変わる目の前の景色全てが彼を拒み、消す。
 ――ここは、どこだ……。
 細い路地を曲がった先には、無数の星があった。
 街、だった。しかしもう動く気力さえない青年の瞳には、それは確かに星に見えたのだ。小さな宇宙に見えたのだ。
 青年は立ち尽くして、路地の壁に体を預ける。しかし、預けた体の筋肉は弛緩し、そのまま座りこんでしまった。星の群は青年の碧の瞳を少し照らした。街の明かりに照らされた青年の格好は、兵士のそれであった。重量のありそうな防具の損傷は、激しかった。
 失った。
 ここに辿り着くまでに、いろいろ失った。
 異民族の中の一人の野心家の目論みは、いいところまでいったが、結局失敗した。政府は異民族を脅威に感じ、異民族は“今まで以上に” 迫害された。
 始まった異民族の排除政策に、居場所もなくなった。
 一人の兵士に、何が出来るというのだろう。表情を変えた時代を受け入れ、暗い道を無意志で徘徊する死体のようになれたら、どれだけ楽になるだろう。
 家族も友人も恋人も失った独りの人間に、一体どれだけの価値があるだろう。
 自分がここでこうして死ぬことさえ、誰にも知られずにいる人間は、生きていいのだろうか。
 何も見えない。
 歩いて、歩いて、歩き疲れた先にそびえる黒い壁。出口のない迷宮から、青年はひたすら暗雲の中に明日を探す。価値を他人から定義してもらえない人間は、なんのために歩いているのか。
 ――“ひとりあるき”。
 ひとり、月夜が照らす細い路地を、息を殺して歩く。
 世界は、憎らしい異種族の末路を、あざ笑ってこう呼んだ。


 いつのまにか、小さい宇宙の星たちの大半が消えていた。
 彼の瞳は、また闇を映すガラス玉に戻った。
 フィルターがかかったように朦朧とした世界を、碧の瞳はおぼろげに見つめる。
 虚空を向く意識と相まって、どんどん感覚が薄れてくる。ただ、血の温かさだけが、意識を繋ぎとめている。
 目を伏せて、青年は側面の壁に全体重を預けてゆく。
 その命さえ預けようと、青年は瞼をゆっくり閉じた。
 消えてゆく感覚の中のひとつが、ふいに青年の意識を呼んだ。
 鈍い反応を返す少年の意識に、それは、第三者の訪れをぽつりと告げる。
 青年は、思い瞼をうっすらと開けた。
 目の前に、不思議そうにこちらを覗き込む女の姿を確認し、ようやく青年はここがどこだかを知った。

 旅と戦いに疲れ果てた旅人を、温めるように抱き、癒す。
 誰もの心を愛し、無償の癒しを捧げる女性を、いつしか旅人は“乙女”と呼んだ。



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